錦織を上回る世界3位の日本人選手、佐藤次郎の壮絶な人生を知る。「庭球は人を生かす戦争だ」

2014年5月、錦織圭が世界ランク9位に入って念願のトップ10プレーヤーとなり、日本中で大きな話題となりました。

フェデラー、ナダル、ジョコビッチなど、歴代のテニス界の記録を塗り替える選手が複数存在し、史上稀に見る戦国時代となっている今の男子テニス界で、トップ10に入ることは、非常に難しく、世界的にも大きな価値のあることです。

しかし、かつて錦織を超える世界ランキング3位にまで上り詰めた、日本人選手がいたことをご存知でしょうか。今回はその伝説的プレーヤー、佐藤次郎をご紹介します。

satojiro01 photo:PoPBunka!

若くして世界の第一線で活躍

佐藤は身長168センチと小柄ながら、粘り強く、勇猛果敢なプレースタイルで「ブルドッグ・サトー」の愛称を持ち、世界の第一線で活躍するトッププレーヤーでした。

1930年に22歳の若さで全日本選手権を制した後、世界に渡って、わずか3年間のうちに、四大大会のシングルスで計5度のベスト4に進出するなど、輝かしい戦績を残しました。

世界ランキングも、四大大会で7連続決勝進出の記録を持つジャック・クロフォード、テニス界のレジェンドで、ファッションブランドでもお馴染みのフレッド・ペリーに続く、第3位にランクイン。佐藤はこの2選手に勝利した経験もあります。

国別対抗戦デビスカップでは、もちろん日本代表に選出され、エースとしてシングルスで14勝4敗、ダブルスで8勝2敗という圧巻の活躍をみせて、瞬く間に国民的ヒーローとなります。

satojiro002 photo:PoPBunka!

世界中に衝撃を与えた投身自殺

佐藤は、25歳となった1933年の後半頃から体調が思わしくなく、満足のいくプレーができなくなってしまいます。デビスカップの日本代表としてプレーできないと判断した佐藤は、自ら代表辞退を申し出ましたが、世界的に人気者である佐藤を外せないというテニス界の事情と、最後は佐藤自身の強すぎる責任感から、強行出場せざるを得ない状況になりました。

しかし、佐藤の心は限界でした。

26歳となった1934年、日本チームの主将として向かったヨーロッパ遠征の帰路で、佐藤は船上からマレーシアの海に投身自殺をします。世界的に知名度の高かった佐藤の突然の死は、テニス界に大きな衝撃を与えました。

「庭球は人を生かす戦争」強すぎる責任感

佐藤は「庭球は人を生かす戦争だ」という持論を持っていました。まさに、国の威信を背負い、命を懸けて戦っていたのです。

四大大会で計5度のベスト4進出という大記録も、裏を返せば「準決勝で敗退」であり、佐藤にとっては、天皇や国民に失望を与えた、屈辱であったのかもしれません。勝ち続けること、国民的ヒーローであり続けることの精神的重圧は、計り知れないものであったはずです。

佐藤の悲劇を繰り返さないよう、私たちは歴史から学ぶ必要があります。もちろん時代は違えど、国やマスコミだけでなく、一般のファンも含めて、選手に対して過度なプレッシャーを与えないよう、どのように競技と接していくべきか、考えさせられます。

錦織の活躍によって、今、改めて浮かび上がってきた誇るべき佐藤次郎という名プレーヤーの存在を、私たちはしっかりと心に留めておかねばなりません。